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水樹 奈々(みずき なな、1980年1月21日〔水樹奈々公式サイト プロフィール 〕 - )は、日本の女性声優、歌手、ラジオパーソナリティ、ナレーター。 愛媛県新居浜市出身。シグマ・セブンとキングレコード(キング アミューズメント クリエイティブ本部)に所属。公式ファンクラブは「S.C. NANA NET」。本名は近藤 奈々(こんどう なな)〔NANA's FACE(水樹奈々プロフィール) - オフィシャルファンページ・JAM STATION ななチャンネル 内のプロフィールページ、著作『深愛』(幻冬舎)の中にも記されている〕。愛称は奈々ちゃん、奈々さん、奈々様、お奈々、ヘッド、近藤さんなど。堀越高等学校、代々木アニメーション学院声優タレント科卒業。 代表作に『NARUTO -ナルト-』(日向ヒナタ)、『水樹奈々 スマイル・ギャング』、『MUSIC JAPAN』(ナレーション)、『ハートキャッチプリキュア!』(花咲つぼみ / キュアブロッサム)などが、代表曲に「深愛」、「ETERNAL BLAZE」、「Synchrogazer」などがある。 == 来歴 == === 学生時代まで === 元歌手志望だった歯科技工士の父親(1933年生まれ)に、5歳から中学を卒業するまで、父の仕事場と両親が経営する自宅のカラオケ教室で演歌歌手の夢を託され毎日休まず猛特訓を受ける〔水樹奈々 著 『深愛』 幻冬舎、2011年1月21日第1刷発行、ISBN 978-4-344-01936-2、16-19頁。〕。他にも、音感を養うためにピアノやエレクトーンを〔水樹奈々 著 『深愛』 幻冬舎、2011年1月21日第1刷発行、ISBN 978-4-344-01936-2、20-21頁。〕、歌手になった時にサインを求められても困らないように書道を学び〔、地元では「のど自慢大会荒らし」と呼ばれていた。一方で優勝とは縁がなかった〔『深愛』40頁〕。父の躾が厳しく、門限に5分遅れたと言っては物置に閉じ込められたり、友達の家を行き来することもいい顔をされなかった。 中学2年の時、東京の芸能プロダクションから声が掛かり、所属のために出された条件が「せとうちのど自慢10周年記念全国大会」〔予選で歌ったのは「河内おとこ節」(中村美律子)、決勝戦で歌ったのは「千年の古都」(都はるみ)だった。〕に優勝しグランドチャンピオンになることだったが、翌年それを果たす〔。上京後は事務所のボイストレーナーの内弟子として生活する傍ら、堀越高等学校芸能活動コース(現・総合TRAITコース)に入学〔1995年1月16日、堀越高等学校受験のために新居浜から夜行高速バス「パイレーツ号」に乗車したところ、翌日5時46分に阪神・淡路大震災が発生した。しかし震災前に通過していたため難を逃れている(LIVE MUSEUM MC-4)〕。同校では堂本剛やともさかりえ、山口紗弥加、佐藤仁美と同級生だった。高校2年生からは代々木アニメーション学院声優タレント科にも並行して通い、学業と両立させた。 1998年3月、代々木アニメーション学院声優タレント科と堀越高等学校芸能活動コースを卒業。水樹は在学中、ある教師が「芸能コースの生徒たちは仕事で忙しいから」という理由で学業を軽んじている傾向を指摘した事に発奮して、一時期は学年トップの成績を収めるなど〔フジテレビ系列『ボクらの時代』 2015年8月6日放送分〕、堀越卒業時は学業優秀・品行方正の卒業生10人に贈られる「堀越賞」を受賞した〔『深愛』、96頁。〕。堀越賞は全コースの生徒対象で、総合TRAITコースからは草彅剛以来2人目の受賞である〔。 この間、高校2年の時に所属事務所が破産。芸能事務所所属が在籍条件である堀越・総合TRAITコースからの退学の危機を迎えるが、歌の師であるボイストレーナーが新たに事務所「産光ミュージック」を設立し、一時在籍することでこの危機を回避している。その師からは5年半におよび、セクハラまがいなことをされ、そして歌手デビューの半年後に内弟子関係を解消した〔師弟間での「じゃれ合い」程度の行為だったが、「思春期の女の子が傷つくには、それは十分すぎるほどだった」としている。一方で、退学を回避できるよう配慮してくれたことなど、感謝もしていると述べている。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「水樹奈々」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nana Mizuki 」があります。 スポンサード リンク
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